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選評  出版関係物故者  放送関係物故者

対象作品は発表された年ではなく、サイト主宰者が実際に目にした年のものとしています。



部門ノミネート作品ベスト作品
図書部門 小説の部   該当作なし
漫画の部 「機動戦士ガンダム THE ORIGIN」 該当作なし
映像部門 映画の部 「バブルへGO!! タイムマシンはドラム式」「それでもボクはやってない」「UDON」「地下鉄に乗って」「ランボー 最後の戦場」 該当作なし
テレビドラマの部 「篤姫」「あしたの、喜多善男」「チーム・バチスタの栄光」 「篤姫」
アニメーションの部 「ちびまる子ちゃん」「クレヨンしんちゃん」 該当作なし

2008年選評

与志田選2008年総括。今期、小説はほとんど読んでません。よってノミネートすらありません(苦)。映画はほかに『インディ・ジョーンズ クリスタル・スカルの王国』を劇場で見ましたけど、これまたいまさらって印象がぬぐえませんでした。じゃ、『ランボー』はいまさらじゃないのかよと突っ込まれると困るのですが…。そこはもう好みということで。( 09/02/08 )

<図書部門>
以前は単行本で買っていた栗本薫の伊集院大介シリーズも、今では文庫化されてから買って、読むのはさらにしばらく経ってからになってます。そんな栗本作品とのつき合いも30年になりました。『身も心も』には『キャバレー』の矢代俊一が、『陽気な幽霊』では伊庭公がひさしぶりに姿を見せてくれました。そうそう『古畑中学生』って、同シリーズ『早春の少年』のパクリじゃないかって感じているの私だけでしょうか…。

<映像部門>
『バブルへGO!! タイムマシンはドラム式』( 1/12・フジテレビ系)
―2006年フジテレビほか 阿部寛 馬場康夫監督
こうしたばかばかしいノリは結構好き。もう何年も昭和の時代を懐かしむような映画やドラマが多いけど、これもいわばその口。オジさんたちにしてみりゃ、バブル期なんてついこのあいだなんだけどね〜。
『ランボー 最後の戦場』( 5/24公開)
―2008年アメリカ シルベスター・スタローン シルベスター・スタローン監督
見に行ったその日、休日であるにも関わらず劇場はガラガラでした。熱の冷めた今の時代、もはやこの手の映画は流行らないのでしょうか。20年ぶりに再会したランボーは悲しげな瞳がいっそう悲しげで…。
『篤姫』( 1/ 6〜12/14・NHK総合)
正直、当初はありがちなホームドラマじゃないのと軽視してました。ところが、中盤あたりから俄然目が離せなくなりました。で、あれよあれよという間に最終回。その獲得した高い視聴率が示すよう確かに面白かったです。
何がよかったって、台本上に書かれたうわべの台詞じゃない、登場人物がじかに発する生きた言葉を聞いたような気がするんです。脚本と俳優のベストマッチとでもいいましょうか。
それまで病弱で暗愚な将軍として描かれることの多かった家定を聡明でありながらも屈折した人物としてとらえ、その心の闇を妻である篤姫が解きほぐし、やがて心を通わせていくという展開は一番の見所であったし、家定亡き後も篤姫と家茂が和宮をからめて三角関係の体をなすプロットも秀逸。井伊直弼や水戸斉昭といったこの時代の重要人物と篤姫のからみがこれまた見事。最初は敵愾心を抱いていた滝山と篤姫が盟友のようになっていくのもいい。歴史の行方はわかっているのにここまで見るものをひきつけたのは、そうした登場人物の巧みな配置、立て方のうまさにあります。これぞまさしくドラマの王道、高く評価したいです。
『あしたの、喜多善男』( 1/ 8〜 3/18・フジテレビ系)
飯田譲治が脚本を手がけていることもあり、序盤はどうなるんだろうとわくわく感がありましたが、ラストはわりと当たり前のところに落ち着いたというか。風呂敷を広げるだけ広げといてちょっと残念。
『チーム・バチスタの栄光』(10/14〜12/23・フジテレビ系)
医学ものというよりミステリー。それだけに無理やりっぽい部分も感じられたけど、最後までぐいぐいとひきつけられました。仲村トオルと伊藤淳史のコンビがいい。続編は「ナイチンゲール…」だっけ、ドラマもやるかな〜。


2008年出版関係物故者

豊かな科学的知識に基づき、人類と宇宙に関するドラマなどを80作品以上も描き、SF界の巨匠と呼ばれたイギリスのSF作家、アーサー・C・クラーク氏が 3月18日死去。90歳だった。( 3/19 読売新聞夕刊より)
1917年、英国南西部マインヘッドの農家に生まれた。第二次世界大戦では、英空軍将校としてレーダーによる着陸誘導システムなどを担当。戦後の45年、静止軌道で衛星間の通信を行う構想を打ち出し、後に実用化された。
46年に作家として本格的な活動を始め、人類と宇宙の接点を描いた「前哨」(48年)や、世界の将来をテーマにした「未来のプロフィル」(62年)などを発表。惑星探査や人類の進化を扱った代表作「2001年宇宙の旅」は、68年に同名の映画(スタンリー・キューブリック監督)として公開され、高度な特殊撮影の技術などから、SF映画史に残る名作となった。
56年にスリランカに移住、水中探査などにも取り組んだ。

作家の今日泊亜蘭(きょうどまり・あらん)氏が 5月12日、肺がんのため死去。97歳だった。( 5/20 朝日新聞夕刊より)
日本のSF小説の先駆者。57年に創刊されたSF同人誌「宇宙塵」に参加。代表作に「光の塔」(62年)。漫画家・水島爾保布(におう)の長男。

SF作家の野田昌宏(のだ・まさひろ)氏が 6月 6日、肺炎のため死去。74歳だった。( 6/ 7 朝日新聞朝刊より)
「銀河乞食軍団」シリーズなどのSF小説、ノンフィクションのほか、翻訳も手がけた。フジテレビに勤務し「ちびっこのど自慢」などの番組に携わり、番組制作会社・日本テレワークを設立し社長も務めた。

漫画家の赤塚不二夫(あかつか・ふじお)氏が 8月 2日、肺炎のため死去。72歳だった。( 8/ 3 朝日新聞朝刊より)
満州(現中国東北部)出身。新潟県内の中学を卒業後に上京、化学薬品工場の工員をしながらマンガを描き、56年に貸本マンガ「嵐をこえて」でデビュー。石ノ森章太郎さんら多くの漫画家が住んだアパート「トキワ荘」で本格的な創作活動を始めた。
58年、初の月刊誌連載となった「ナマちゃん」を「漫画王」に発表。62年に六つ子を主人公にしたドタバタギャグ「おそ松くん」を「週刊少年サンデー」に、変身願望をくすぐる少女マンガ「ひみつのアッコちゃん」を「りぼん」に連載して人気漫画家に躍り出た。
67年、前衛的笑いの集大成「天才バカボン」と"反体制ネコ"ニャロメが登場する「もーれつア太郎」が連載開始。多くの作品がテレビアニメ化され、一大ブームを巻き起こした。02年に脳内出血で倒れて以降は、東京都内の病院で、意識が戻らないまま闘病生活を続けていた。
65年に「おそ松くん」で小学館漫画賞、97年に日本漫画家協会文部大臣賞を受賞した。

恐竜が人間を襲う大ヒット映画「ジュラシック・パーク」の原作者として知られるアメリカの作家、マイケル・クライトン氏が11月 4日、がんのため死去。66歳だった。(11/ 6 読売新聞夕刊より)
シカゴ生まれ。ハーバード大医学部在学中に創作活動を始め、医学知識を生かしたSF小説「アンドロメダ病原体」(69年)が初のベストセラーに。その後も、日米経済摩擦を背景にした「ライジング・サン」(92年)や、セクハラをテーマにした「ディスクロージャー」(94年)なども映画化された。
また、原案・制作総指揮を担当したドラマ「ER/緊急救命室」では、総合病院の救急救命室を舞台に繰り広げられる医師らの日常を描き、日本でも人気となった。

戦後を代表する奇書「家畜人ヤプー」の作者とされる天野哲夫(あまの・てつお)氏が11月30日、肺炎のため死去。82歳だった。(12/ 4 読売新聞朝刊より)
雑誌連載を経て1970年、沼正三(ぬま・しょうぞう)の筆名で刊行された「ヤプー」は、2000年後の白人帝国で、日本人が家畜となって白人に奉仕するという小説。

小学館前社長の相賀徹夫(おおが・てつお)氏が12月21日、肺炎のため死去。83歳だった。(12/27 読売新聞朝刊より)
1945年10月に3代目社長に就任。在任中に「週刊少年サンデー」「女性セブン」「週刊ポスト」などを創刊し、「図説日本文化史大系」「日本百科大事典」「日本国語大辞典」などの大型企画を指揮。92年まで47年にわたって社長を務めた。89年から91年まで日本雑誌協会理事長。

歴史小説作家の早乙女貢(さおとめ・みつぐ)氏が12月23日、胃がんのため死去。82歳だった。(12/26 読売新聞朝刊より)
満州(現中国東北部)出身。戦後、21歳で日本に引き揚げ、山本周五郎の知遇を得て本格的に小説を書き始める。1969年、同人誌「小説会議」に連載した「僑人の檻」で直木賞。
曽祖父が戊辰戦争で敗れた会津藩士だったことから、敗者の視点から幕末を描くことをライフワークとし、会津・鶴ヶ城落城までを記した「会津士魂」と、明治維新後に青森・下北半島へ移住させられた会津の人々を描く「続会津士魂」の計21巻を70年から31年かけて執筆、その分量は原稿用紙1万1000枚にもなった。「会津士魂」で89年、吉川英治文学賞。


2008年放送関係物故者

脚本家の鳥海尽三(とりうみ・じんぞう)氏が 1月17日、肝臓がんのため死去。78歳だった。( 1/18 読売新聞朝刊より)
「昆虫物語みなしごハッチ」「科学忍者隊ガッチャマン」など、1970年代のテレビアニメの脚本を数多く手がけた。

映画監督の市川崑(いちかわ・こん)氏が 2月13日、肺炎のため死去。92歳だった。( 2/14 読売新聞朝刊より)
三重県出身。1948年、野上弥生子の「真知子」を映画化した「花ひらく」で監督デビュー。「足にさわった女」「プーサン」など、社会風刺をちりばめた都会派の喜劇を撮って注目された。「ビルマの竪琴」(56年)ではベネチア国際映画祭サン・ジョルジュ賞を受賞。「鍵」(59年)もカンヌ国際映画祭審査員特別賞に輝くなど、世界的に高い評価を得た。記録映画「東京オリンピック」(65年)も大ヒットした。
「細雪」「おはん」「映画女優」など、衰えを知らず次々と新作を発表。94年の「四十七人の刺客」は、東京国際映画祭審査員特別賞を受賞。2000年の第50回ベルリン映画祭では、映画界への貢献に対して特別功労賞が贈られた。06年には、自身のヒット作「犬神家の一族」を30年ぶりに再映画化、これが遺作となった。
映画のほか、「木枯し紋次郎」「丹下左膳」などテレビドラマの演出にも意欲的に取り組んだ。82年に紫綬褒章、88年に勲四等旭日小綬章を受賞。94年に文化功労者に選ばれている。

声優の広川太一郎(ひろかわ・たいちろう)氏が 3月 3日、がんのため死去。69歳だった。( 3/ 9 読売新聞朝刊より)
テレビで放送される洋画やアメリカ製ドラマの吹き替えを数多く手がけ、「007」シリーズのロジャー・ムーア、トニー・カーチス、ロバート・レッドフォードらの声を担当。アニメ「宇宙戦艦ヤマト」では古代守役を務めた。
コミカルな役での、ダジャレを交えた独特の語り口は「広川節」とも呼ばれ、映画「Mr.BOO!」シリーズのマイケル・ホイ、英国のコメディー番組「モンティ・パイソン」などで親しまれた。軽快な語り口で、ラジオのDJやテレビのナレーションでも活躍した。

作詞家の川内康範(かわうち・こうはん)氏が 4月 6日、慢性気管支肺炎のため死去。88歳だった。( 4/ 8 朝日新聞朝刊より)
北海道出身。炭鉱などで働いた後、上京して執筆活動を始める。58年から放送されたテレビドラマ「月光仮面」は白装束の正義の味方が、悪を懲らしめる筋書きで大ヒット。「愛の戦士レインボーマン」など子供向け番組のほか、鈴木清順監督の「東京流れ者」など映画の原作・脚本も多く書いた。75年から約20年にわたってテレビ放送された「まんが日本昔ばなし」では監修を務めた。
作詞家として「月光仮面」「まんが日本昔ばなし」の主題歌や、青江三奈「恍惚のブルース」「伊勢佐木町ブルース」、水原弘「君こそわが命」、森進一「花と蝶」「おふくろさん」、城卓矢「骨まで愛して」などを生み出した。60年には、和田弘とマヒナスターズ、松尾和子が歌った「誰よりも君を愛す」で第2回レコード大賞を獲得した。
また政界との親交も深く、戦没者の遺骨引き揚げ運動をはじめ、政治評論にも積極的にかかわった。

映画評論家の水野晴郎(みずの・はるお)氏が 6月10日、肝不全のため死去。76歳だった。( 6/11 朝日新聞夕刊より)
岡山県出身。郵便局勤務の傍ら慶大文学部の通信教育を受けた。56年に20世紀フォックス映画に入社、日本ユナイトを経て独立した。映画会社当時、「史上最大の作戦」「夕陽のガンマン」「真夜中のカーボーイ」などの名邦題を付けたことで知られた。
72〜97年の25年にわたり、日本テレビ系の映画番組「水曜ロードショー」(後に「金曜ロードショー」)の解説を務め、約1200本の映画を紹介した。柔らかい語り口でお茶の間の人気を博した。著書に「映画がいっぱい」など。
また、96年からはミステリー映画「シベリア超特急」シリーズを監督・主演。警察問題にも詳しく「世界の警察」などの著書もある。

歌手のフランク永井(ふらんく・ながい)氏が10月27日、肺炎のため死去。76歳だった。(11/ 3 読売新聞朝刊より)
宮城県出身。高校卒業後に上京し、米軍キャンプでジャズやポップスを歌い始めた。テレビののど自慢番組の出場がきっかけで、1955年にジャズ歌手として、「恋人よ我に帰れ」でデビューした。歌謡曲に転向した57年、「有楽町で逢いましょう」が大ヒットした。
その後も「夜霧に消えたチャコ」「東京ナイト・クラブ」「霧子のタンゴ」「おまえに」などを発表。61年には昭和初期の流行歌「君恋し」を改めてヒットさせ、第3回日本レコード大賞を受賞した。NHKの紅白歌合戦には、57年から26回の連続出場を果たした。
しかし85年10月、私生活のトラブルから、自殺を図った。一命は取り留めたものの脳障害を起こし、介護が必要な状態のまま、長くリハビリに励んでいた。71年に芸術選奨文部大臣賞を受けた。

ニュースキャスターの筑紫哲也(ちくし・てつや)氏が11月 7日、肺がんのため死去。73歳だった。(11/ 8 読売新聞朝刊より)
大分県出身。早稲田大卒業後、1959年に朝日新聞社に入社。政治部記者、ワシントン特派員などを経て、84年に「朝日ジャーナル」編集長に就任。「新人類」「元気印」などの流行語を生み出した。78年から82年にかけて、記者活動のかたわら、「日曜夕刊!こちらデスク」(テレビ朝日系)のキャスターも務めた。
89年に朝日新聞社を退社、TBS系「筑紫哲也NEWS23」のキャスターに転じた。雑誌的な切り口や街頭インタビュー、コラムコーナー「多事争論」など、従来の報道番組にはなかったスタイルで、テレビ朝日系「ニュースステーション」の久米宏さんとともに、新しい形のニュースキャスターとして人気を集めた。
今年5月、「テレビジャーナリズムの確立に多大の貢献をした」として日本記者クラブ賞。著書に「総理大臣の犯罪」「若者たちの神々」などがある。

特技監督の高野宏一(たかの・こういち)氏が11月30日、肺疾患のため死去。73歳だった。(12/ 5 読売新聞朝刊より)
1954年に東宝入社。「ゴジラ」シリーズなどに撮影助手として参加した後、円谷プロダクションで「ウルトラマン」や「ウルトラセブン」などのヒーロー番組の特撮を手がけた。