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NHK土曜ドラマ 鎌田敏夫シリーズ「十字路」。1978年4月と12月に放送。
昨年の春にDVDが発売され、今年になって購入。そして先日、全6回を見終わる。

おそらくこれまで再放送はされていないので、44年ぶりにあらためて見たことになる。あまりにも懐かしすぎる。千葉真一や草刈正雄の若い姿というよりも、番組を見ていたあの頃の自分に再会したような思いすらある。
もっとも多感な時期に見ただけあって自分にとって本作は印象的なドラマのひとつに数えられるが、記憶に残っているのはイメージの断片だけで、ドラマとしての筋はほとんど忘れてしまっていたことにも当たり前だが気づかされた。

このドラマの見どころは、旅の途上で偶然に出会う二人の男の生きざまが交錯し、やがて互いを理解していくところ。”十字路”というタイトルからしてそうした狙いで企画されたのは明白だろう。ただ、1回の放送の中でも別れてはまた会うという偶然がいささか多すぎやしないかと、いまさらながら突っ込みを入れたくなることは否めない。
しかし、その一方でそうした突っ込みはむしろ承知の上で書き進められたのではないかとも思える。なぜならば、そうしたご都合主義的な展開に不快さはなく、むしろそれが心地よいと感じるからだ。とはいえ、いくらなんでも主人公の二人がそう都合よく日本の各地で出会うという展開にはさすがに無理があるなと作者側も思ったのか、第2部の途中からは同じ会社で仕事をする仲間同士という設定に変わるわけだが、無理は承知で偶然に出会うというパターンを貫き通したほうが潔かったかもしれない。

主人公がやたらとお節介なのはあの時代の青春ドラマのテイストで、”俺たちシリーズ”のメインライターである鎌田節ともいえる。女好きで軽薄でいながらも心優しく、自分の生き方にブレない田口祥平にはカースケの片鱗が見え隠れするではないか。
登場人物のファッションはもちろん、手にした缶ジュース、街中の映画の看板など、44年前の作品だけあってドラマの中には昭和の懐かしい風景が垣間見れる。
1本残ったタバコを二つに折って二人で分け合って吸うなんてシーンは、もうあの時代でないと見ることはできないと思う。でも、青春の一歩手前にいた当時の自分にはそれがものすごくあこがれでもあったのだ。

「真田丸」が好調のようである。初回視聴率が19.9%というのもまずまず、すでに20%を超えた回もあるようで、ここ数年の大河ではいい数字を出している。

実際、見ていて面白い。物語のテンポがいいし、登場人物の誰もが活き活きしている。なにより脚本家・三谷幸喜の真骨頂で台詞が生きている。昨年の「花燃ゆ」が話の筋を追うための"説明台詞"オンパレードだっただけに、この点はなおさらに感じる。2文字のサブタイトルも「樅ノ木は残った」や「国盗り物語」など往年の大河を髣髴とさせるようでいい(大河がフリークを自認する三谷氏の好みだろうか)。
大河を複数書いた経験のあるく脚本家は圧倒的に一作目の出来がよすぎて二作目になると失速するようなところがあったけど(市川森一しかり、ジェームス三木しかり、竹山洋しかり)、三谷幸喜の場合は逆パターンのようである。三谷氏に言わせると一作目「新選組!」も決して奇抜さを狙ったわけではとのことだが、あきらかに今作こそは往年の名作大河を強く意識した正当派、正攻法の作り込みを感じる。

「花燃ゆ」が心配である。長年の大河ファン、研究者、そして何よりも松陰先生を敬愛するものとして。
初回の視聴率が16.7%は過去最低のようである(じつは「春日局」の初回が14.3%というのがあるが、これは放送が元旦だったためだろう)。初回がこれでは近年の傾向からして今後上がることはまず難しいと思われる(「篤姫」的奇跡がない限り)。
数値を分析せずともドラマの内容そのものがそれを物語っているようであるが。とにかく脚本がひどいし、演出もひどい。早くも見るのが苦痛になってきている。

寅次郎が東北旅行の際になぜ脱藩したのか、きっかけが描かれてない。宮部鼎蔵も出番があれだけでは今後の池田屋にどうつなげるんだって感じ。師である佐久間象山が出てこない(寅次郎の台詞でおそらく1回だけしか出てきてない)。象山との出会いが密航にも関係してくるはずなのに。寅次郎の最初の弟子である金子重輔がいつのまにかくっついてきている。見る人には誰だお前って感じだろう。なんで密航しようとしたのか、見ている人はきっとまったくわからない。口だけ、台詞だけの展開である。あれじゃホントにただの人騒がせな男じゃないか。松陰先生があんまりだ。
そんでもって主人公の文がでしゃばりなのがイヤだ。ドラマでも最初は人見知りという設定だったはずなのに。朝ドラの主人公にはいいかもしれないが...。

このままいくと大河史上最低のタイトルになりそうな予感大である。

今日、渋谷に出たついでにNHKまで行ってきた。雨の中、ちと寒かった...。
下に写真を載せた「NHKテレビドラマカタログ」という冊子をもらってきたのである。この冊子、最初は地元の図書館で見かけ、その内容の充実ぶりにぜひとも手もとに置いておきたいと思っていた。しかし調べてみたところ、書店には流通していないようである。図書館の人にもどこかで手に入らないかと訊ねてみたが、寄贈だという。なんとも奇特な人がいたものだ。
でも、それほど古いもんじゃないからどこかで手に入らないものか、としばらく思いあぐねた末。そうだ、直接NHKに訊けばいいじゃん。果たしてメールで問い合わせてみたところ、いともあっさり「NHKまで受け取りにこられるならわけてあげる」と返事が来たのだ。
で、今日直接行ってもらってきたというわけ。

この冊子、冊子というにはあまりにも豪華で、カラーもふんだんに使われている。ページ数は156もある。よくあるムックのような体裁だ。内容に至っては、朝ドラ、大河ドラマはもちろん、銀河テレビ小説、少年ドラマシリーズ、土曜ドラマ、などなど。とにかくドラマファンには堪えられない充実ぶりである。しかも無料!この内容ならたとえ定価が1000円だったとしてもぜんぜん納得だと思う。

ちなみにこの冊子は川口のNHKアーカイブスでも入手可能らしい。また遠方の人には郵送も受け付けているとか。
欲しい人はいっぱいいるんじゃないだろうか。というわけで、NHKの宣伝マンじゃないけど、問い合わせ先を紹介しておきたい。

http://www.nhk.or.jp:80/css/goiken/mail.html

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「NHKテレビドラマカタログ─ドラマ番組放送記録+カテゴリー小史 1953~2011」(2011.3.31発行) 表紙(左)、裏表紙(右)

昨日の夕刊にその記事が出ていてびっくり。つい数日前、氏の「蝶々さん」を見たばかりだったからだ。「蝶々さん」は少々退屈な内容だったが、いかにも市川氏らしい作品だった。
自分の場合、テレビドラマに脚本というものがあるのを知るきっかけとなったのが氏の「幻のぶどう園」だったと記憶する。これが面白くて、本で読みたくて、本屋を何件も回って探した思い出がある。そのころの自分はテレビで放映されるようなものは、当然書籍として刊行されているものと疑っていなかったわけだ。またそのころは当然ビデオもなく、一度見た最終回をどうしてももう一度見たくて学校をサボった記憶もある(「幻のぶどう園」は「銀河テレビ小説」枠で放映され、再放送が翌日の昼過ぎにあったのだ)。
その氏がそれからしばらく後に「黄金の日日」を書き、これがまたたまらなく面白かった。そして、さらなる極めつけが「淋しいのはお前だけじゃない」。氏が「ウルトラセブン」や「傷だらけの天使」も書いていたのを知ったのはわりと後のことだ。
つい先だっては小松左京に北杜夫。70年代から80年代、自分にとってもっとも多感な時期に多大な影響を与えてくれた作品の創作者たちがここ数年次々と亡くなっていく。とてつもなく淋しい思いである。

東京MXテレビで放送中の「ファイヤーマン」。本日23日よりS2とかという裏チャンネルに移ってしまって、アナログ機では見ることも録画することもできなくなってしまった。残す回はあと3話ばかしで、しかも月の半ばときたもんだ。どうしてこんな中途半端なときにこういうことするのかねー。大いに疑問だったりする。
で、表チャンネルは何をやっているかというと、誰が見るんだろうかというショッピング番組。まだ「ファイヤーマン」のほうが視聴率を取れると思うんだが。スポンサーの関係か...。
序盤の回はわりとまともな作りかと思いきや、後半になるにつれて情けない内容になってきたものの、もう少しで最終回というところで録画できないというのは、ものすごく収まりが悪い。気持ち悪いことこのうえない。

これまでアニメ史に残る最高傑作と疑わずにいた「劇場版・銀河鉄道999」だが、今あらためて見たところ少なからず違和感を覚えたので、それを記しておく。
というのもこの8月、NHKBSの特番「全駅停車!「銀河鉄道999」ぜんぶみせます」で、テレビ版と劇場版を続けて見る機会を得た。テレビ版も劇場版もこれまで何度となく見ているはずなのに、いつのまにか両方の記憶がごっちゃになり、勝手に解釈したりしていたところが多いことに気づかされたのである。じつのところテレビ版と劇場版ではストーリー上、違っている部分が意外と多いのだ。

・まず鉄郎の旅立ち。雪原で機械伯爵に襲われた直後、メーテルに助けられると思っていたら、劇場版の鉄郎はスラムの不良少年で、メガロポリス駅でメーテルに助けられる。母の死は鉄郎の回想として描かれている。
・劇場版ではハーロックやエメラルダスが鉄郎と大きく関わっており、劇中やたら前面に出てくる。クライマックスの惑星プロメシュームにおける戦闘では彼らが加勢にきてくれるのだ。アンタレスも時間城の戦闘に加勢にきている。
・ガラスのクレアは鉄郎たちと旅をともにしていて、最後にプロメシュームに襲われた鉄郎をかばって死ぬ。
・劇場版の鉄郎は惑星プロメシュームに到着する前に、それを破壊するために行くと宣言している。テレビ版は最後の最後まで迷っているのに...。
・劇場版はメーテルが鉄郎に直接別れを告げている。鉄郎はそれを見送る形で終わる。メーテルからの置手紙があり、列車が出発してから別れに気づくテレビ版と大きく違うところだ。

とはいえ、劇場版がアニメ史に残る最高傑作という位置づけは自分の中で変わるものではない。ただそれに迫るくらいテレビ版がいい出来であることにいまさらながら気づいたというわけである。とくにここにあげた違いの最後のふたつはテレビ版のストーリー運びに軍配を上げたい。

余談ながら、ついこのあいだ見た「ファイヤーマン」第8話「ミクロ怪獣の恐怖」(1973年放送)にメーテルこと池田昌子が母親役で出演していた。
くしくも32年前の今日、テレビ版の放送はスタートしたのだった。

ひさびさに腹立たしくなるほどのつまらないドラマを見てしまった。こんなことは滅多にないので、一言書いておく。
そもそも原作は膨大な手塚作品のなかで必ずしも傑作とはいいがたいタイトルなのだが、それを差し引いても今回のドラマの出来はひどすぎる。というより、原作の設定を下敷きにしようとするから余計に始末が悪い。最初から破綻しているようなストーリー構成、性格付けが甘く、まったく魅力の感じられないキャラクターたち。こんなもの見せられたら、逆に映画を見たくなくなるんじゃないか...。

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